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仏教美術について(初期仏教美術〜顕教美術)



インドの仏教史においては、大きな転換期が3回ありました。

最初は、お釈迦様が出家し法に目覚めて成道し、そしてその後45年間にわたって布教伝道して仏教教団を設立したこと。

第二の転換期は、紀元前後に興起し中国、チベットそして日本に大きな影響を与えた大乗仏教(顕教)。

第三の転換期は4〜6世紀頃から部分的萌芽が見られ、そして7〜9世紀にかけて最盛期を迎えた密教。密教の発達は初期、中期、後期の3段階に分けられます。



このように、インドで成立した仏教は歴史的にも地域的にも多様な展開を遂げていき、それとともに登場する仏たちの数と内容も急速に増大していきます。



1.初期仏教美術〜仏教美術のはじまり

仏教関係の美術が制作され始めた最初の時期はアショカ王(268〜232BC頃)の時代と考えられています。この時期以前のものは現存していません。



この時期以後、西暦1世紀終わり頃までの仏教美術は、お釈迦様の遺骨(舎利しゃり)を埋納した塔を中心とした建築物の装飾として彫刻や絵画につくられていました。その内容はお釈迦様の現世における伝記や、前世の物語である本生話(ほんじょうわ=ジャータカ)で、伝記には、お釈迦様の姿を直接には表さないで法輪や菩提樹や仏足石などお釈迦様の伝記に関係した事物によって表されています。中インドのサーンチー仏塔の塔門や欄楯(らんじゅん)には、これら伝記と本生話の見事な浮き彫りが施されています。



2.顕教美術〜仏像の成立

お釈迦様の姿が人間的な形であらわしはじめられたのは1世紀の頃です。その遺品はインドの西北地方ガンダーラに多くあります。ここには古くからギリシャ人が住んでいたために、ここで制作された仏像はギリシャ人のような顔をもちギリシャ神像のような像になっています。



ガンダーラで仏像彫刻が作られはじめた頃、インド本土においてもお釈迦様の礼拝堂が制作されはじめています。この時期の釈迦像はお釈迦様の伝記の場面から抜け出したような形が種々作られています。例えば禅定や降魔や説法などのお釈迦様です。仏像が成立して、その制作が一般的となった頃には仏教も初期仏教の時代から民族を越えて信仰されるようになった大乗仏教の時代になっています。



<仏の三十二相>

釈迦像が制作されはじめて間もなくの頃に成立した大般若経などの経典には、仏の姿に関する特徴を数え上げたもので「仏の三十二相」、「八十随好形(はちじゅうずいこうぎょう)」が述べられています。八十随好形とは三十二相を更に詳細に説いたものです。



これらのものは人間の姿を基本としながらも、その姿の中に宗教的な理想をあらわすようにと考えられたものです。例えば三十二相の中には、身体手足すべて黄金色に輝いているとしたり、手足の水掻き、手の長いこと、眉間に右巻の白毛があり光明をを放ち伸びると一丈五尺ある白毫相(びゃくごうそう)などが述べられて、ここに述べられていることが後世においても仏像の基本的形態となっています。またこの相は、後には菩薩も備える相であるとされるようになりました。



<釈迦八相図>

仏伝(お釈迦様の伝記)をあらわす美術は無仏像時代からはじめられていますが、仏像成立以後には、お釈迦様を人間の姿であらわした仏伝が彫刻や絵画で表現されています。仏伝の一部分を絵に描くことは日本でも作り続けられていて、お釈迦様の八大事蹟を描いた「釈迦八相図」などは早くから作られています。釈迦八相図とは八大成道ともいい、お釈迦様の一生における八大事をいいます。


〜釈迦八相(しゃかはっそう)〜

降兜率(ごうとそつ)ー兜率天から下ったこと。

入 胎(にゅうたい)ー母体に入ったこと。

出 胎(しゅったい)ー母体から出生したこと。

出 家(しゅっけ)ー修行生活に入ったこと。

降 魔(ごうま)ー悟りを得る前に訪れた悪魔を征服したこと。

成 道(じょうどう)ー悟りを得たこと。

転法輪(てんぽりん)ー説法、教化したこと。

入 滅(にゅうめつ)ー涅槃に入ったこと。




釈迦伝のうち日本で最も多く作られているのは、誕生(出胎)と入滅の両場面です。

お釈迦様の誕生をあらわす誕生釈迦は、日本では奈良時代から作られており、現在までこれを本尊とした行事はつづいています。生まれるとすぐに七歩あるき、右手を上に上げ、左手を下に下げ「天上天下唯我独尊」と唱えたといわれるものです。



お釈迦様の入滅の場面をあらわす涅槃図は、沙羅双樹のもとで亡くなられたお釈迦様を描いたものです。 お釈迦様が入滅される様子は『涅槃経』という経典に記されていますが、それに基づいて描かれたのが仏涅槃図です。



<過去七仏>

人間としてのお釈迦様が法身(ほっしん)としてのお釈迦さまとして考えられてゆくにしたがって種々の仏の存在が考えられはじめました。(法身とは、仏の姿を三種類に分類した報身(ほうじん)・応身(おうじん)とともに三身(さんじん)とされるうちのひとつで、真理そのものとしての仏の本体、色も形もない真実そのものの体のこと。仏の究極の本体ともいわれる)



まず、お釈迦様が悟りを開いたのは独りで悟ったのではなく、それ以前からの教えを過去に受けたと考えられました。そして「過去七仏」が過去に出現しており、お釈迦様はその第七番目であったとされます。 過去七仏とは、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘沙浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の七仏です。この七仏に対して未来に出現する弥勒如来が誕生しています。



<様々な如来の出現>

過去七仏や弥勒如来につづいて、もっと具体的な性格をもった如来が間もなく考えられはじめます。西方極楽浄土に住して命の終わった人間を、その臨終に迎えに来て極楽往生させてくれる誓願をもっている阿弥陀如来。人間の病苦に対しての守護を果たしてくれる薬師如来。東方の妙喜国に住する阿閦(あしゅく)如来などです。



大乗仏教(顕教)の前期時代には、これらの諸如来が出現すると共に、如来の住する浄土への想像が限りなく広げられ、善美を尽くした壮麗な浄土の表現が出来上っていきました。



<様々な菩薩の出現>

最初の菩薩の名は出家以前のお釈迦様につけられていたものでしたが、大乗仏教の時代になると如来に到達する前段階にある菩薩としていろいろな名をもったものが表れてきます。弥勒・観音・普賢・文殊などはこの時代の早い頃からその名が見られ、後にまで重要な役割をもっている菩薩です。



しかし、この時代の仏教信仰は如来の境地への到達がその中心になっているために、これらの菩薩各々が独立した性格をもったものとして信仰の中心になるようなことはありませんでした。(そのような信仰も、この時期には起こりはじめたようですが、それは後の密教的信仰によってなされたと考えられています)ですので、この時代の菩薩は如来の両脇侍として、如来の性格の一端をあらわすものとしての性格をもつに過ぎないものとして表されています。



例えば、阿弥陀如来の両脇侍としての観音菩薩と勢至菩薩。釈迦如来の両脇侍としての普賢菩薩と文殊菩薩などのような形として菩薩たちは考えられていました。ですが、これらの菩薩は後に別の系統の密教経典において、種々の性格を付け加えられ、独立した信仰をもたれるようになっていきます。



顕教の時期における浄土図をみると、多くの菩薩のほかに様々な姿をした護法神も描かれています。これらのものは仏教以外の異教神の姿で、仏教に教化されて仏教を守護することを誓った神々です。これらの神々は浄土に威容を添えるもので四天王・八部衆・十二神将・十六善神などはその例です。






仏教美術について(密教美術〜初期から中期)



3.密教美術〜初期から中期

密教美術において表現されているほとけのはじめは異教神の仏教への移入にあると考えられていますが、その歴史は非常に古く、すでに紀元前にみられます。しかし、これらのものは仏教的に重要な意味をもつものとして取り上げられなかったために、顕教美術を装飾するものとして終わってしまっています。ですのでその表現の特質からみれば密教美術とすべきという考え方が主流です。



密教美術の特徴は、ほとけの性格を具体的な形によって表現するということです。それは多数のほとけが出現しているために、それらを区別する必要からなされたと考えられますが、密教のほとけのもっている力の内容を直接に表現することによって様々な特徴が形成されました。



<ヒンドゥー教諸神の仏教化>

顕教美術が華やかに展開されていた時期に、一方ではヒンドゥー教やその他の宗教との接触と交渉が複雑に行われていました。そして主にヒンドゥー教の神の移入が徐々になされました。四天王・梵天・帝釈天は早くからありましたが、金剛手・金剛力士・弁財天・吉祥天などは多くの顕教経典にもその名があげられています。その中には、密教経典の時代になると、より以上に重要な意味をもったものもみられます。



これらのほかに非常に強い力をもった様々なほとけが〇〇金剛というような名称をもつものとして取り上げられる時期があります。火頭金剛・馬頭金剛などはその例です。これはヒンドゥー教などの神々が仏教化される最初の段階といえます。



<変化観音の出現>

しかし、それらのものが仏教的に高い地位をもつためには、菩薩の名称が与えられなければならず、金剛と呼ばれるものの中で菩薩的性格を持ち得るものには菩薩の名称が与えられるようになりました。馬頭金剛が馬頭観音菩薩に展開していったのはそのひとつの例です。



この時期になると従来の菩薩と同じような名を与えられて、種々の変化した姿をもったほとけが出現します。その最も代表的なものが観音菩薩の変化です。



〜観音菩薩の変化〜

観音菩薩の起源は現在でもまだ十分には解明されていません。経典としては「法華経」第二十五品の「観世音菩薩普門品」に登場して諸難を救済する観音、あるいは一群の浄土経典に説かれる阿弥陀如来の脇侍としての観音があります。また観音菩薩の起源を、インド以外のとくに古代イラン系のアナーヒター(もしくはアールマティ)神に求める見解も提唱されています。



これらの初期段階の観音は、その根底に人間的な菩薩のイメージをもっていましたが、この時期(初期密教)にヒンドゥー教の多様な神々の属性を吸収して新しい観音が登場します。その中には、救済を希求する人々の切なる願いを反映して、「普門品(ふもんぼん)」に説かれる「あらゆる方角を向いた」という表現を具体的に拡大解釈した十一面観音、多面だけでなく様々な願望を叶える多くの持物(じもつ)を持ち印相を結ぶ千手観音、漁師が獲物を捕ることが巧みである点をたとえて羂索(けんじゃく=なわ)をシンボルとする不空羂索観音や、馬頭観音、准胝観音、如意輪観音など多数に変化した性格の観音が出現しています。



観音菩薩は、その後もシヴァ神系、ヴィシュヌ神系、あるいはシャークタ派(性力派、女神を崇拝する一派)など様々な神々を吸収し、同様にバラエティ豊かな文殊菩薩と並んで後期密教図像学の上で重要な役割を果たします。



<明王の出現>

密教では、除災や招福などのために唱えられる呪術的な言葉である真言陀羅尼を一心に唱えると、種々の祈願が成就するという信仰があり、その力が絶大であるものに対して「明(陀羅尼)王」という名をつけました。明王の表現は多くが激しい力を表現しています。明王と呼ばれるものたちは密教的発想と役割において成立したもので他の仏教ではまだ確立していません。



明王の最初のものとしては、五世紀頃に経典が成立した孔雀明王があり、この尊格は孔雀に乗る菩薩形で怖い姿ではありません。しかし七世紀以後に出現する明王は怖い姿をしたものばかりです。明王の代表的なものは不動明王を中心とする五大明王、八大明王をはじめとして、愛染明王、大元帥明王などがあげられます。



<天部像の増加>

密教では「天」と名付けられるほとけが著しく多く、これらのほとけは顕教時代から護法神として取り上げられたものをはじめとして、ヒンドゥー教の神々が様々な場合の守護神として、もとの名称のまま仏教に移入されたものです。



これらのほとけは方位を守護する十二天をはじめとして星宿関係など様々なものがあげられます。胎蔵曼荼羅の中の最外院に描かれているものがその代表的なものです。



<曼荼羅(マンダラ)の成立>

マンダラの原形は、古代インドにおけるバラモン教やヒンドゥー教の宗教儀式に見られます。それは土壇にさまざまな幾何学模様や神像を描き、天上の神々を招いて供養し祈願する聖なる空間でした。このマンダラが仏教に取り入れられ壇上に諸仏諸菩薩が描かれ、それらのほとけを勧請して供養し、護摩(ごま)や灌頂(かんじょう)などの儀式が行われるようになりました。さらに密教の行者はマンダラを観想し、ほとけの世界をイメージし、その聖なるほとけの世界をだんだん縮小して、遂には自己の心の中にしまい込んでしまう。自分自身がほとけそのものになりきってしまうためにマンダラを使用しました。



「マンダラ」という語をチベットの人たちは、「中心をまわるもの」と訳しました。マンダラはその中心の仏とそれを取りまく周縁の神々によって成り立っています。その中心と周縁の神々は宮殿の中に整然と並んでいます。後世、その宮殿は世界の中心である須弥山(しゅみせん=スメール)の頂上に建てられていると考えられました。須弥山の世界であれば、須弥山頂に居城を構えるのは神々の王である帝釈天ですが、マンダラの場合は仏になります。



日本の密教で代表的なマンダラである「金剛界マンダラ」では、中心に大日如来が置かれ、その四方の東南西北に、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀(あみだ)、不空成就(ふくうじょうじゅ)の4尊の如来が位置します。これら4尊はそれぞれの方角にある仏国土を司る仏たちですが、マンダラでは全員が大日如来の居城に集合したように描かれます。マンダラは仏さまの悟りの境地を絵柄で表したものといわれますが、形としてはほとけたちの住む「家」のようなものです。



中期密教を代表する経典は、日本にもなじみ深い「大日経」と「金剛頂経」の二大経典です。そして、「大日経」で説かれるのが「胎蔵(たいぞう)マンダラ」、「金剛頂経」で説かれるのが「金剛界マンダラ」です。



〜胎蔵マンダラ〜

こちらで登場するすべてのほとけがご覧になれます→胎蔵マンダラ

胎蔵マンダラは正式には「大悲胎蔵生(だいひたいぞうしょう)マンダラ」と呼ばれます。胎蔵とは母胎のことで、悟りを求める心が芽生え衆生救済の慈悲となって発露することを、受胎と出生に例えると解釈されます。日本密教では金剛界マンダラと並んで、特に重視されるマンダラです。



胎蔵マンダラは7世紀前半に成立した「大日経」(正式名称は「大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつしんぺんかじきょう)」)という密教経典に説かれます。この経典の中にはマンダラについての記述が何カ所かに登場しますが、日本の胎蔵マンダラはこの経典の記述だけでは描くことが出来ません。中国を経て伝えられる間に登場するほとけの種類や構造にいろいろな変化があったからです。これにくらべチベットの胎蔵マンダラは経典の記述に近い形態を維持しています。



胎蔵マンダラは十三の部分(院)で構成されたものと、十二院で構成されたものがありますが、日本では十二院で構成されたものが主流です。(中台八葉院、蓮華部院、金剛手院、遍知院、持明院、釈迦院、文殊院、虚空蔵院、蘇悉地院、地蔵院、除蓋障院、外金剛部院の十二院)



胎蔵マンダラの中心部は「中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)」と呼ばれ、大日如来と4尊の仏、4尊の菩薩からなります。八葉の花弁をもった蓮華をかたどっているため、この名がありますが、蓮華も母胎のシンボルです。中心の仏を4尊の仏が取り囲むという形態はマンダラの基本的な構造です。四方の仏はそのまま世界の四方にある仏国土の仏にあたります。宇宙に遍満するほとけたちのなかの代表のみを取り上げて描いたことになります。



次に取り上げる金剛界マンダラでも大日如来の四方に4尊の仏が位置しますが、その名称は胎蔵マンダラのものとは異なります。いずれのマンダラも大日如来を世界の根源的な仏とみなし、それを中心とした仏の世界を、それぞれ独自の形態で表現しています。



「中台八葉院」の左右には、縦長の区画があり、整然とほとけたちが並んでいます。このうち向かって左は「蓮華部院(れんげぶいん)」、右は「金剛手院(こんごうしゅいん)」と呼ばれます。「蓮華部院」は観音菩薩を中心とし、そのまわりを観音と関係のあるほとけたちが並びます。蓮華は観音のシンボルであり、これらのほとけはグループが蓮華部と呼ばれるからです。もう一方の「金剛手院」はその名称にもある金剛手が中心となります。グループの名は金剛部です。



「中台八葉院」を挟んでこれら二つの区画があるのは、インドにおける伝統的な仏像の配置に関係すると考えられています。インドの仏像配置の形式に三尊形式といわれるものがあります。中央に仏を置き、その左右に従者としての菩薩などを1尊ずつ配します。左右の尊格は脇侍とも呼ばれます。中央の仏は釈迦如来であることが一般的でしたが、脇侍にはいくつかの組み合わせがみられます。その代表的なものが、観音と金剛手の組み合わせです。脇侍の菩薩を含むこれら3尊に、それぞれに関係をもつほとけたちを加えてできたのが胎蔵マンダラの中央3つの区画です。



胎蔵マンダラの残りの院は、顕教以来、有力であった菩薩を中心とする区画や、外教の神であるヒンドゥー教の神々を配した外金剛部院(げこんごうぶいん)と呼ばれる院からなどから構成されています。胎蔵マンダラに含まれるほとけの数は、地域や発展段階によって異なりますが、最終的な形態を示す日本の胎蔵マンダラの場合、361尊にものぼります。



【胎蔵マンダラの構成】左右は南北、上下は東西、合計12院から成る。方位は上方が東。


●中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)

本尊大日如来とその属性を分担する四仏。およびそれを補佐する四菩薩からなる。

●蓮華部院(れんげぶいん)

観音菩薩を中心として、如来の慈悲の働きを象徴する。

●金剛手院(こんごうしゅいん)

金剛薩埵(こんごうさった)を中心として、如来の力を象徴する。

●遍知院(へんちいん)

三角形の一切遍知印を中心に、智慧とものを生み出す生産力を象徴する。

●持明院(じみょういん)

不動明王や降三世明王などによって、密教の仏の降伏の力を示す。

●釈迦院(しゃかいん)

伝統的な仏である釈迦如来を掲げ、密教が仏教の発展形態から生まれたことを示す。

●文殊院(もんじゅいん)

文殊菩薩を中心として、智慧の具体的な働きを象徴する。

●虚空蔵院(こくうぞういん)

虚空蔵菩薩を中心として、あらゆるものを生み出す功徳力を象徴する。

●蘇悉地院(そしつじいん)

如来のあらゆる働きの成就を示す。

●地蔵院(じぞういん)

地蔵菩薩を中心として、あらゆる者を救済することを象徴する。

●除蓋障院(じょがいしょういん)

除蓋障菩薩を中心として、あらゆる障害を取り除く働きを象徴する。

●外金剛部院(げこんごうぶいん)

マンダラを守るとともに、その功徳をあらゆる者に広める働きを象徴する。最外院ともいう。



〜金剛界マンダラ〜

こちらで登場するすべてのほとけがご覧になれます→金剛界マンダラ

胎蔵マンダラと並んで日本密教で重視されるのが、7世紀後半に成立した「金剛頂経」という経典を典拠とする「金剛界マンダラ」です。「金剛界」という名称は、金剛(最も堅い金属、またはダイヤ)というなにものにも壊されることのない堅固な世界を意味します。金剛界マンダラはマンダラの歴史のなかで、きわめて重要な位置を占めます。これ以降に登場したマンダラの多くが金剛界マンダラを基本形とするからです。




金剛界マンダラは密教の伝播とともに、アジア各地に伝えられ、チベットやネパール、あるいは東南アジアでも流行しました。中国を経て日本にも伝えられ、多くの作例が残されています。日本では、この「金剛界マンダラ」と「胎蔵マンダラ」のふたつをあわせて「両界曼荼羅」と呼びふたつを一組のものとして扱うことが一般的です。



日本の金剛界マンダラは、9つの部分(会)に分かれるため「九会(くえ)曼荼羅」とも呼ばれます。これら9つの部分は、それぞれ独立したマンダラでインドやチベットでは別々につくられました。9つのマンダラを組み合わせて、ひとつのマンダラにしたのは、唐代の中国であったと考えられています。(9つの部分とは成身会、三昧耶会、微細会、供養会、四印会、一印会、理趣会、降三世会、降三世三昧耶会)



9つの部分のうち、基本となるのは中心の部分で、「成身会(じょうじんえ)」と呼ばれます。大日如来を中心とする37尊が描かれ、さらにその周りを仏、菩薩、あるいはヒンドゥー教の神々が取り囲みます。中心となる37尊は五仏(大日如来と4仏)、四波羅密(しはらみつ)、十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、内の四供養菩薩(ないのしくようぼさつ)、外の四供養菩薩(げのしくようぼさつ)、四摂菩薩(ししょうぼさつ)というグループに分かれます。



「成身会」以外の8つの部分は、この成身会マンダラのほとけの形態を変更したり、簡略にしたものです。「金剛界九会マンダラ」の最大の特徴は胎蔵マンダラとは違って、同じほとけたちが何度も姿・形を変えて登場することです。登場するほとけを別のメンバーと入れ替えたものもありますが、中心に描かれているのは常に「大日如来」です。ただし右上の「理趣会(りしゅえ)」のみは「金剛頂経」ではなく「理趣経」と呼ばれる別の経典を典拠とするマンダラで、中央のほとけも大日如来ではなく金剛薩埵です。



胎蔵マンダラとともに九会の金剛界マンダラをはじめて日本にもたらしたのは「空海」です。空海が請来した2種のマンダラは現存していませんが、それにかなり近い転写本が高雄山寺(のちの神護寺)に残されています。そのほかにも京都の東寺や和歌山の高野山などに平安時代の遺品がいくつか残されています。これらの日本のマンダラは世界にも類がない、きわめて古い貴重な作例です。このほか、「成身会」のあたる中央のマンダラのみを描いた「八十一尊曼荼羅」と呼ばれる形式の作品が天台宗を中心に伝えられています。



【九会金剛界マンダラの構成】マンダラに含まれる仏の数は1461尊だが、成身会を囲んでいる「賢劫千仏(けんごうせんぶつ)」を1尊と考えれば全部で87尊。


●成身会(じょうじんえ)

金剛界マンダラの中心。密教的世界を尊形(具体的な姿形)で表現したもの。

●三昧耶会(さんまやえ)

成身会を諸尊の働きを示す持物などのシンボルで表現したもの。

●微細会(みさいえ)

中央に位置する37尊は小さな(微細)金剛杵の背景をもつ。成身会を文字、もしくは音で表現したもの。

●供養会(くようえ)

五仏以外の諸尊は女尊で表現される。成身会の内容を諸尊の働き、もしくはエネルギーで表したもの。

●四印会(しいんえ)

成身会を簡略化し、代表的なほとけのみで表現したもの。大日如来と十六大菩薩中の各方位の代表的な四菩薩などが登場。

●一印会(いちいんえ)

成身会を大日如来一尊で表現したもの。本尊大日如来しか登場しない。

●理趣会(りしゅえ)

金剛界マンダラの教えを、煩悩即菩提のほとけ、金剛薩埵などで表現したもの。この会には大日如来は登場しない。

●降三世会(こうざんぜえ)

素直に教えに従わない者のために、忿怒形となった降伏のほとけ、降三世明王を中心にしたもの。成身会では金剛薩埵であった菩薩が、恐ろしい降三世明王に変身している。

●降三世三昧耶会(こうざんぜさんまやえ)

降三世会の諸尊の働きを示す持物などのシンボルで表現したもの。



〜五仏(五如来)〜

密教でもっとも重要な仏が、大日(だいにち)如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀(あみだ)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の五仏です。これら五人の仏たちはインド、チベット、ネパール、日本などにひろまった金剛界マンダラの中央に位置しています。



大日如来は五仏の中でもっとも中心的な仏です。この如来は7世紀頃インドで成立したとされる「大日経」にはじめて登場しましたが、そこでは釈迦如来や薬師如来のような僧形ではなく菩薩のような飾りを身にまとった煌びやかな姿で表されていました。この仏はその身体が仏教の真理(法)そのものであると考えられ、「法身(ほっしん)」と呼ばれています。またもともと太陽神であり、身体は太陽の光を示す白色です。手はブッダの説法を意味する転法輪印(てんぽうりんいん)、あるいは仏の智慧に入ることを意味する智拳印(ちけんいん)を結んでいます。



阿閦如来は金剛界マンダラでは大日の東に位置します。「阿閦(アクショーブヤ)」とは、「動じないもの」を意味し、この仏は悟りを開いたブッダの何事にも動じない姿を表すといわれます。阿閦は身体が青色をしており、この色は仏法の障害や悪魔を打ち砕く仏の怒りの色とされています。また右手で釈迦如来にみられるような触地印(しょくちいん)を結んでいます。



大日の南に位置する宝生如来はサンスクリットで「ラトナサンバヴァ」(宝から生まれたもの)と呼ばれ富を司る仏です。身体は黄色で、この色は財としての黄金と関係があるといわれています。また右手のひらを上に向けて恵みを与える印の与願人(よがんいん)を結んでいます。



大日の西に位置する阿弥陀如来は西方にある仏の国である極楽浄土に住み、生きとし生けるもの(衆生)を救うために、この世界に表れる仏として、密教が盛んになる以前から信仰されてきました。「阿弥陀」はサンスクリットで「ア・ミタ」つまり「量ることができないほど多くの」、「無量の」という意味です。「ア・ミタ」に「ア・ユース(長寿)」あるいは「アーバ(光)」を後につけて、二通りの解釈がなされました。「アミターアーユス」とは「量ることができないほど多くの年月の間存在する仏」という意味で、そこから「無量寿(むりょうじゅ)」という名前が生まれました。、また「アミターバ」は「量ることができないほど多くの光をもつ仏」という意味で、そこからは「無量光(むりょうこう)」という名前ができました。無量寿も無量光も阿弥陀を指す名前として知られています。金剛界マンダラに住する阿弥陀如来は身体は赤色、両手のひらを重ねて瞑想を意味する禅定印(ぜんじょういん)を結んでいます。



北に位置する不空成就如来の名前はサンスクリットの「アモーガシッディ」、「完成(成就)をかならず(不空)得るもの」という語に由来します。身体は緑色、右手を挙げて手のひらをこちらに向け人々の恐れを鎮める施無畏印(せむいいん)を結んでいます。



日本では五仏の位置と身体の色は太陽の運行に関係があり、大日は太陽本来の光の色、東の阿閦は夜明け前の暗がりの青、宝生は太陽が南にきたときの黄色、阿弥陀は日没時の赤、不空成就は太陽が沈んだ後の闇を示しているともいわれます。五仏の多くは頭を丸めた僧形で表されますが、ときには髪を長く伸ばし、冠や首飾り、腕輪などきらびやかに飾った菩薩の姿で表されることもあります。



<中国及び日本で創作された仏教美術>

仏教がインドを離れて中国、日本にまでもたらされ信仰された場合には、その地方において独自の信仰形態が形成されます。仏教の理解の仕方も地方・時代の相異によって新しいものが生み出されてきます。そのような場合には経典から出発しながらも、経典儀軌(ぎき)に述べていない変わった形式も生み出されるようになります(儀軌とは密教の儀式や規則を記したもので、ほとけの容姿や身体の色、持っている法具なども厳格に定められています)。



例えば、中国で作られた中国的浄土図。日本で作られた阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)、特に鎌倉時代の著しく変化の多い来迎図はまったく日本的信仰によって作り出されたものです。
そして、日本が創作した仏教美術のもので、もっとも多く見られるのは、本地垂迹(ほんじすいじゃく)の美術です。本地垂迹というのは、日本の在来の神々は仏教の種々のほとけが日本に出現した形のものであって、日本の神と仏教のほとけは同体であるという考え方です。神社を中心にして仏像を配した曼荼羅などが多く作られています。僧形八幡神像をはじめ、春日(かすが)曼荼羅、山王(さんのう)曼荼羅、熊野(くまの)曼荼羅など様々な形式のものがあります。



また、主に日本仏教だけの信仰として、儀軌などにはまったく見られない新しい形式のものを作り出して信仰している場合もあります。蔵王権現(ざおうごんげん)、雨宝童子(うほうどうじ)、三宝荒神(さんぽうこうじん)などです。






仏教美術について(密教美術〜後期〜)



4.密教美術〜後期

密教は「金剛頂経」の成立によって、ひとまずの完成をみた、ということができます。しかし、インドにおいて密教は、その後もさらに展開を遂げていきました。8世紀末以降に新たな密教経典が続々と生み出され、それらは無上瑜伽タントラと呼ばれ、さまざまなマンダラや後期密教美術品がつくられていきました。




現在、インドでは当時つくられたマンダラは皆無に近い状態です。しかしインド仏教を最後まで摂取しつづけていたチベットやネパールには、後期密教のマンダラも数多くが今日まで伝えられ、また現在でも描かれています。




日本の密教は、「金剛頂経」を代表とする中期密教の経典までしか実質的には伝えられませんでした。後期密教の経典はいくつかが宋の時代に漢訳されましたが、その頃の中国仏教界はすでに密教は主流ではなくなっており、また後期密教経典に説かれる特異な実践や教理が中国では受け入れられず、日本の密教にも大きな影響を与えることはありませんでした。




後期密教の特異な実践とは、一言でいうと「性的ヨーガ」の採用です。後期密教では、「象徴するものと、それが象徴しているものは同じ」と考え、仏陀の智慧=女性、慈悲=男性と当てはめました。悟りとは、智慧と慈悲がひとつになった状態です。そのため男性と女性が合一した状態を悟りそのものである、とみなしたのです。これを実現するために性的な実践法を取り入れました。ただし、単なる性行為を実践法としたのではなく、ヨーガという彼ら独自の実践システムの中に位置づけ、「性的ヨーガ」として確立しました。




<密教パンテオンのほとけたち〜チベット・ネパール>

後期密教の無上瑜伽タントラの隆盛とともに秘密仏といわれるヘールカ系の守護尊や、明妃といわれる女尊などが数多く登場し、従来のほとけたちとともに信仰されるようになりました。そのようなほとけたちは下記のような「密教パンテオン」と呼ばれるグループを形づくっています。




(1)如来・仏(にょらい・ほとけ)

(2)菩薩(ぼさつ)→観音菩薩その他の菩薩

(3)女神(じょしん)

(4)忿怒尊(ふんぬそん)

(5)護法神(ごほうしん)

(6)祖師(そし)

(7)秘密仏(ひみつぼとけ=ヘールカ)






(1)如来(にょらい)

如来・仏とはすでに悟りを得たほとけを指します。このグループには日本でもよく知られる釈迦如来や薬師如来がいます。また、「五仏」と呼ばれる大日、阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就は特に重要視されています。また、上記の「密教パンテオン」では(7)秘密仏として別グループとして記しましたが、これら秘密仏も如来のグループです。



後期密教の無上瑜伽タントラで「秘密仏(ヘールカ)」が登場し、これらの仏は、いずれもヒンドゥー教のシヴァ神の図像的要素、思想的要素を基礎概念として、それに仏教の教義を付け加えたものと解釈されています。人を恐れさせるような外見をし、また不浄とみなされる骨、血、皮などの土着的な要素がふんだんに取り入れられています。特にチベットやネパールで人気のある仏です。



密教では、僧侶や寺院が密教パンテオンから一人のほとけを選び、自分の守り本尊にする習慣があります。チベットでは、この守り本尊を「守護尊(イダム)」と呼びますが、多くの場合これらのヘールカ仏が守護尊として選ばれます。



ヘールカ仏には、グヒヤサマージュ(秘密集会)、チャクラサンヴァラ(勝楽)、へーヴァジュラ(呼金剛)、金剛バイラヴァ、カーラチャクラ(時輪)などがいます。ヘールカは一般に身体は青黒く、多くの顔と腕をもち(多面多臂ためんたひ)明妃(みょうひ)と呼ばれる配偶女尊と交わった姿をしています。



(2)菩薩(ぼさつ)

菩薩は悟りを開いて如来となるために修行に励むほとけです。菩薩の修行とは、世の中の生きとし生けるものを救うことであり、これは大乗仏教のなかでも最も基本的で重要な修行です。如来たちはすでに悟りを開いていて、どちらかというと私たちには遠い世界へ行ってしまったというイメージがありますが、菩薩はこの世の中にとどまって迷ったり苦しんでいる人々と接しながら、彼らを導こうと常に努力しています。このグループには、観音、文殊、弥勒、普賢、地蔵、金剛薩埵などがいます。



チベットでも菩薩の中では観音が最も広く信仰を集めています。「大乗荘厳宝王経(だいじょうしょうごんほうおうきょう)」が説く四臂観音は「オンマニペメフン」の六字真言を仏格化したもので、「六字観音」と呼ばれます。チベットにおける観音の標準的スタイルです。



観音についでポピュラーな菩薩は文殊菩薩です。チベットでは多くのバリエーションがあり、最も一般的なのは剣と梵筐(ぼんきょう)をもつスタイルで、、日本の五字文殊(アラパチャナー文殊)に相当するといわれています。



(3)女神(じょしん)

ヘールカ仏についで後期密教の美術的特色は女神の大幅な進出です。ブッダの生涯を記した仏伝では、ブッダの悟りを最後に邪魔したものは悪魔が遣わした女性たちの美しい姿であり、ブッダはその女性の誘惑に打ち勝って悟りを得たといわれています。ですから元来仏教では、異性との接触はタブーとされていました。大乗仏教が起こり、さまざまな種類のほとけたちが生まれた後も、そのようなほとけたちが妃を抱いた姿で表されることはありませんでした。



しかし密教が盛んとなり、血や骨、皮といった「不浄なもの」と考えられる要素、あるいは性行為など「隠しておくべきもの」とされる要素が、悟りを得るための手段として積極的に取り入れられるようになると、ほとけたちは自分たちの妃を抱いた姿で表されるようになりました。



また7世紀以降ヒンドゥー教では女神崇拝が盛んになり、仏教もその影響を受けました。ヒンドゥー教の男神の妃としての女神は「シャクティ」と呼ばれますが、「シャクティ」とはこの場合「力」のことで特に性力、つまり性的なエネルギーを意味します。仏教においても女神たちは自分のパートナーである男神のエネルギー源なのです。



インド、チベット、ネパールの密教パンテオンでは、女神は高い地位を占めています。さまざまな女神たちのうち仏眼仏母(ぶつげんぶつも=ローチャナー)、白衣明妃(びゃくえみょうひ=パーンダラヴァーシニー)、マーマキー、ターラーの4人は「法界語自在マンダラ」では大日以外の5仏のうちの他の4人の仏の妃(四妃)とされます。



「法界語自在マンダラ」とは、金剛界マンダラの流れをくむ重要なマンダラです。「法界自在」とは文殊の別名で、「真理の世界の言葉に自在なもの」を意味し、マンダラの中尊がこの文殊です。一般には文殊は菩薩ですが、ここでは大日如来と同体、仏とみなされます。



仏眼仏母はブッダの眼がもつ力を神格化した女神で、五仏のうちの阿閦如来の妃とされています。白衣明妃は阿弥陀如来の妃とされ、白衣をまとい白蓮華の中に住んでいます。日本では白衣観音と呼ばれて、観自在のひとりとみなされています。マーマキーは宝生如来の妃ですが、阿弥陀如来の妃とされることもあります。この女神はチベット、ネパール、中国でよく知られています。日本では胎蔵マンダラに「忙莽鶏(もうもうけい)」として登場します。ターラーは日本では多羅菩薩と呼ばれ不空成就如来の妃とされています。



そのほか般若仏母や般若波羅密多女、ヨーギニー(瑜伽女)やダーキニー(荼枳尼)など、数ある女神のなかでも特に広く信仰されたのはターラーです。ターラー女神は起源的にはまだ不明な点が少なくありませんが、観音の涙の池に咲いた蓮華の中から生じたという伝説があり、古くから観音に結びつけられています。



(4)忿怒尊(ふんぬそん)

如来、菩薩以外で密教パンテオンにおいて比較的高い地位にいる男神のグループが忿怒尊です。忿怒尊は仏教の教えを守るため、教えに従わない者たちを恐ろしい姿で威嚇しながら教えに導く役割を担っています。忿怒尊にはマハーカーラー(大黒)、アチャラ(不動)、十忿怒尊(じゅうふんぬそん)などがいます。チベットには「明王」という概念がなく、日本の明王に相当するほとけは忿怒尊と呼ばれています。



後期密教では「十忿怒尊」と呼ばれる10人の忿怒尊のグループが活躍します。後期密教経典の「秘密集会タントラ」にもとづくマンダラには、ヤマーンタカ(大威徳明王)、ハヤグリーヴァ(馬頭明王)、トライローキヤヴィジャヤ(降三世明王)、また上に述べたアチャラなど10人の忿怒尊が登場します。これら10人はマンダラの空間に妨害者が入り込まないよう、しばしば10本の刃が付いた車輪型の武器(防御輪)に乗っています。またこれら十忿怒尊のうち、ヤマーンタカやハヤグリーヴァなどはチベットではしばしば守護尊として選ばれます。



(5)護法神(ごほうしん)

マンダラにおいては、しばしばヒンドゥー教起源の神々があらわれます。これらの神々は護法神と呼ばれます。ヒンドゥー教以前のブラーフマニズム(バラモン教)の時代にあらわれ、現代のヒンドゥー教でも信仰されているインドラ(帝釈天)、アグニ(火天)、ヴァルナ(水天)、ヤマ(閻魔)など8人の神々は東西南北とその中間の八方位を守護する神々(八方天)として密教パンテオンに取り入れられています。これらの神々は星神たちと同様にマンダラの外側に位置し、マンダラの空間を守る役割を担っています。



ヒンドゥー教においてはブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの三男神がよく知られています。そのうち日本でも梵天という名で知られるブラフマー神は、仏伝ではブッダに仏教の教えを人々に対して説くよう勧めるという重要な役割を担って登場しますが、密教パンテオンではそれほど重要視されることはなく、マンダラの中心にあらわれることはありません。同様に現代のヒンドゥー教ではブラフマー神よりも大きな信仰を集めているシヴァ神やヴィシュヌ神も、密教パンテオンでは高い地位を占めていません。



〜星神〜

仏、菩薩、女神、忿怒尊以外に密教パンテオンには、日、月および火星や水星などの惑星や、定期的に月が宿る星座(星宿せいしゅく)などが神々として取り入れられています。これらの星神たちはしばしばグループであらわれますが、その代表に九曜(くよう)があります。「九曜」とは太陽(スーリヤ)、月(ソーマ)、火星(マンガラ)、水星(ブダ)、木星(ブリハスパティ)、金星(シュクラ)、土星(シャニ)の7つの星(七曜)と日月食(ラーフ)および彗星(ケートゥ)が神格化された9人の神々を指します。



「法界語自在マンダラ」においては、この「九曜」が28種の星宿(二十八宿)などとともにマンダラ内部の神々を守るように、マンダラのいちばん外側に位置しています。



(6)祖師(そし)

チベット仏教では師(ラマ)が重要視されますが、ある宗派の創始者や非常に活躍した僧侶(祖師)たちはとくに高い地位を占めています。祖師のひとりであるパドマサンバヴァは、9世紀に仏教を伝えるためにインドから招かれた僧侶シャーンタラクシタとともにチベットにやってきたといわれます。チベットに初めて仏教僧院サムイェ寺が建てられたとき、チベットの土地神たちの妨害によりなかなか工事が進ます、パドマサンバヴァは超能力により土地神たちを降伏させたといわれています。このパドマサンバヴァはチベット仏教のもっとも古い宗教であるニンマ派の創始者とされています。



ツォンカパは16世紀ころのチベットで活躍した僧侶です。学問と修行に励むうち、瞑想中文殊菩薩から教えを受け、仏教思想の体系をまとめたといわれています。ツォンカパは現在のチベット仏教の中心的な宗派であるゲルク派の創始者です。



祖師たちは以上にあげた人物以外にも、有名なヨーガ行者であるミラレパやその師マルパ、またチベット仏教サキャ派で活躍したサキャ・バンディタなどがいます。チベットでつくられた密教図像集には、仏や神々と並んで祖師たちの図像が含まれています。祖師たちはしばしば仏や神々と同等の地位を占め、信仰の対象となっています。



<仏教の歴史と教え>

インド仏教のおおまかな歴史


仏教の教え(初期〜大乗〜密教)


チベット密教について



<仏教美術について>

タンカ(仏画)について


五仏(五如来)について



参考文献