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彩雲の店長です。上海万博のネパール館でタンカと出会い、一目で魅了されました。これをきっかけにして神様仏様に関連する彩雲ショップをやることに決めました。よろしくお願いします。

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チベット密教について

密教とは煩悩にまみれた人の意識を破壊して、一気に悟りの境地にまで引き上げブッダと成す(=即身成仏)ことを目的とした意識革命の教えです。

日本にはインドの中期密教までしか伝えられませんでしたが、チベットには後期密教まで伝えられました。チベット密教は日本の密教にはない、さらに発展し複雑化した形態の密教経典を護持した独自の修行体系を持っています。

中心となる経典は後期密教経典といわれる、一連の無上瑜伽タントラであり、ニンマ派に伝承されポン教の影響下にあるゾクチェンの教えであり、テルマ(埋蔵経典)と呼ばれる諸経典群、また、それぞれのチベット仏教宗派に伝承される「死者の書(バルドゥ・トゥドル)」と呼ばれる経典などです。そしてこれらの密教経典には、インド仏教のあらゆる教えの要素が内包されています。

インド後期密教は同国内において13世紀に滅びたものの、チベットには密教経典はもとより、初期仏教から大乗仏教までの膨大な仏教経典や関連典籍がすべて継承され整理体系化を経て、チベット密教が成立します。仏教のすべての可能性を内在し、限りない包容力をもってブッダとなるための道を用意してくれるのが、チベット密教の大きな特徴です。

また、チベット密教の神々、曼荼羅を構成する仏尊の多様さは、日本のそれを軽く凌駕します。魔物としか言いようのない多面多臂(ためんたひ)の忿怒尊(ふんぬそん)、立ったまま妃を腰に抱く守護尊(しゅごそん)、髑髏(どくろ)や生首を持つ異形の神などなど。その過激で多様な世界感は、日本には伝わらなかった密教経典、無上瑜伽タントラの影響と思われます。

1.チベット仏教界の密教の発達段階
密教は初期・中期・後期と区分する方法と、14世紀のチベットの学匠プトゥンが提示した4分法があります。プトゥンは、中期密教を「行タントラ」と「瑜伽タントラ」の2つに分け、密教の歴史を発展順にタントラ4分類説として提示しました。

〜プトゥンのタントラ4分類説〜
(1)所作(しょさ)タントラー初期密教に対応。
(2)行(ぎょう)タントラー中期密教の「大日経」が成立した7世紀前半に対応。
(3)瑜伽(ゆが)タントラー中期密教の「金剛頂経」が成立したそれ以降8世紀頃に対応。
(4)無上瑜伽(むじょうゆが)タントラー後期密教に対応。
無上瑜伽タントラはさらに、父(ふ)タントラ・母(も)タントラ・不二(ふに)タントラの3つに分類される。

それぞれのタントラの概要、特徴は下記の通りです。
(1)所作タントラ
●所作タントラは胎蔵曼荼羅の根本経典「大日教」が成立する以前4〜6世紀に出現したインド初期の密教経典をいう。日本の密教からいえば雑蜜に当たり、価値的には未発達の劣ったものとされる。
●内容は呪文、陀羅尼、諸仏尊の供養法、印(印契)の結び方などの作法を主としたもので、「陀羅尼集経(だらにじっきょう)」「不空羂索経(ふくうけんじゃくきょう)」などの経典がある。

(2)行タントラ
●所作タントラのあとに成立したのが行タントラで、7世紀頃にインドにおいて成立した「大日教」系の密教に当たる。この経典によって密教が確立したといえる。
●内容は大日如来(毘盧遮那仏)が自分の宮殿で金剛薩埵(こんごうさった)や他の菩薩たちに説法するというもの。特に即身成仏、神変(人間の考えでは理解できない不思議)、三蜜加持の重要性を強調している。
●さらに大日如来(毘盧遮那仏)を中心とした「胎蔵曼荼羅」の観想法の実践を重視する。
●曼荼羅による観想法はさらに大きく深く発展しながら、次の瑜伽タントラや無上瑜伽タントラへと引き継がれることになる。

(3)瑜伽タントラ
●瑜伽タントラは「大日教」よりも少しのちの7世紀後半に成立したとされる「金剛頂経」と「理趣経」を主要経典としている。
●「金剛頂経」は単独の経典ではなく新旧いくつかの同系統の経典の総称で、そのうち初期に成立した原典に当たるものを特に「初会(しょえ)金剛頂経」という。一般に「初会金剛頂経」が「金剛頂経」と略称されている。
●「金剛頂経」は大日如来(毘盧遮那仏)を中心とした「金剛界曼荼羅」の典拠となる経典で、悟りの心(菩提心)を得るための観想法が詳細に説明され、曼荼羅の仏と密教行者が一体になることに主眼が置かれる。
●もうひとつの主要経典である「理趣経」は般若(仏の智慧)の具現者である金剛薩埵が自分の悟りの境地を説いたもので、密教の極意を示す経典とされる。その内容は、宇宙は本来清浄なものであり、それと同じように人間の性愛も清いものであると愛欲の肯定を説いている。「金剛頂経」よりも踏み込んだ内容であり、チベット密教の性的行法に多大な影響を与えた。

(4)無上瑜伽タントラ
●「金剛頂経」成立後の8世紀以降のインド後期密教の経典群を無上瑜伽タントラという。無上瑜伽の無上とはもはや「上が無い」ということで、最高、絶頂という意味。
●無上瑜伽タントラはインド後期密教の開幕を告げ、それを代表するといわれる「秘密集会(ひみつじゅうえ)タントラ」からインド仏教が滅びつつあった11世紀頃に成立した後期密教の総決算ともいうべき「時輪(じりん=カーラチャクラ)タントラ」までを指す。
●無上瑜伽タントラは下記の3つに分類される。(成立年代8〜13世紀初め)
無上瑜伽タントラの中心仏格は原則としてそのタントラ名(経典)と同一の名称をもっている。

タントラ区分 中心仏格 主要経典
父(ふ)タントラ 阿閦秘密集会 秘密集会タントラ
母(も)タントラ ヘーヴァジュラ(呼金剛)
チャクラサンヴァラ(勝楽尊)
ヘーヴァジュラタントラ
チャクラサンヴァラタントラ
不二(ふに)タントラ カーラチャクラ(時輪仏) カーラチャクラタントラ

●内容的には後期密教の特徴であるエロス肯定を含む曼荼羅理論を集約しており、これを基盤に父タントラ系の修行体系の「生起次第(しょうきしだい)」が形成されていった。
●「秘密集会タントラ」成立後の9世紀中頃以後に現れた母タントラを代表するとされる「ヘーヴァジュラタントラ」は、きわめてエロスティックな表現やスカトロジーなどの隠語が多い母タントラにおいて、呼吸や性的エネルギーを統御する瑜伽行法における「究竟次第(くっきょうしだい)」が成立した。
●その後、父タントラ系の「生起次第」と母タントラ系の「究竟次第」の統合が図られるようになり、不二タントラ系の根本テキストである「カーラチャクラタントラ」が成立した。
●「カーラチャクラタントラ」はインドで最後に成立した密教経典。内容は真実の智慧の実現を目標としている。その方法として時間的存在である大宇宙の構造と活動(日・月・星辰の運行など)を考慮し、それに対応する人間の時間的側面(生理的な脈管・チャクラ・気息)のコントロールによって究極的な実在との合一を実現しようとするもの。
●男女が抱擁し合体した父母仏(ふもぶつ)は、すべて無上瑜伽タントラに基づいたもので、チベット密教の一大特色。

後期密教の無上瑜伽タントラは主にチベットに伝えられましたが、伝えられた直後はともかく、14世紀になると性的ヨーガを文字通り実践することはほとんどなくなりました。性的行動を厳格に禁止する戒律に触れないように瞑想の中でのみ、あくまでシンボル的な行為として性的ヨーガを利用する方向へと変容していきました。

2.チベット吐蕃王国への仏教伝来
チベットには、人口の希薄さと低い生産力から長らく統一的な権力は存在しませんでしたが、6世紀に入り吐蕃王国(とばんおうこく)のソンシェン・ガンポ王(581〜649)がチベット全域の統一に成功しました。そして7世紀の前半にソンシェン王の二人の王妃である文成公主(ぶんせいこうしゅ)とティツンによって初めてチベットに仏教がもたらされました。

チベットには仏教が伝来する前にポン教と呼ばれる土着的な民族宗教が広まっていました。ポン教は万物にはすべて霊が宿っているという宗教観を基調とした呪術的要素が強い民族宗教です。このポン教と仏教は激しく対立抗争を重ねその対立関係は約300年続きましたが、次第に融合を重ねるようになり、今日のポン教はチベット仏教の一派といってもよいほど仏教化しています。

仏教はポン教徒によって弾圧された時期もありましたが、自身が熱心な信徒で仏教の国教化を図るティソン・デツェン王の時代(8世紀)に本格的に仏教が普及し始めました。ティソンはインド後期の大乗仏教と密教に精通したインドの高僧シャーンタラクシタ(寂護じゅくご)と、大行者パドマサンバヴァ(蓮華生れんげしょう)を招き入れ、大寺院の建設に着手しました。

そして775年、チベット最初の国立仏教寺院のサムイェ寺が創建されます(この時期は日本の奈良時代)。パドマサンバヴァはチベット密教の四大宗派のひとつニンマ派の開祖ですが、現在ではグル・リンポチェの尊称で宗派を超えて崇敬されています。

このサムイェ寺でシャーンタラクシタを導師に僧伽(さんが=仏教教団)が形成される一方、インドのサンスクリット語経典をチベット語に逐語訳する翻訳事業の拠点になり、のちに世界的に貴重なチベット大蔵経の成立へとつながって行きました。またサムイェ寺の創建をきっかけにチベット各地にも寺院が建てられ、仏教の研究と布教が進められていきました。 (逐語訳とは原文に従って一語一語忠実に翻訳することで、チベット大蔵経は、主にサンスクリット語に翻訳された仏典の集成で、忠実な逐語訳に近く、サンスクリット原典の失われたものを補い漢訳大蔵経にないものが多数訳されているので仏教学の貴重な資料になっています)

3.チベット仏教の四大宗派
9世紀半ばに廃仏政策をとるラン・ダルマ王が現れ、以後仏教は王室の保護を失い受難の時代を迎えます。この時期までに伝えられた密教は主にパドマサンバヴァを祖とする在家行者たちによって伝えられ命脈を保ちますが、これらは11世紀以降に伝来した新訳の密教と区別され古密教(古派こは)と呼ばれます。

今日のチベット密教が成立する上で11世紀はきわめて重要な時代で、それは西チベット出身の翻訳官リンチェンサンポの登場に始まります。西チベット・ガリー地方の王イェシェーウーは仏教の復興を目指して優秀な若者をインド・カシミールへ留学させましたが、その中にいたのがリンチェンサンポです。

彼は膨大な経典類を訳しましたが、なかでも中核に位置するのが、新訳密教経典の「秘密集会タントラ」と「初会(しょえ)金剛頂経」で、それぞれ無上瑜伽タントラと瑜伽タントラの基本典籍であり、いずれもチベット密教を学ぶ上で不可欠なものとなっています。

さらに、今日のチベット仏教の成立に欠かせない人物にインド後期仏教の総本山ヴィクラマシーラ大寺院の大学匠アティーシャがいます。彼はややもすれば未整理の状態にあったタントラ密教の方向性を是正して体系化し、チベット仏教を興隆させる基盤を築きました。具体的には初期仏教から大乗顕教の修学を怠らずに、戒律を守った上でタントラ密教を学ぶことを説きました。

アティーシャの影響は各方面に及び、その系統は弟子のドムトゥンなどの活躍もあって、カダム派と呼ばれるようになりました。のちのツォンカパはアティーシャなどの教学をベースにして新カダム派=ゲルク派を創始することになります。

そして、チベットで最も古い吐蕃以来の流れを継承するといわれる開祖をパドマサンバヴァとするニンマ派、11世紀にはカギュ派とサキャ派、14世紀にはゲルク派が誕生します。今日、これらはチベット密教の四大宗派といわれるようになります。

 

〜チベット仏教の四大宗派〜
(1)ニンマ派(開祖 パドマサンバヴァ)ー中心教法は大究竟(だいくっきょう)
(2)サキャ派(開祖 クン・クンチョク・ゲルポ)ー中心教法は道果(ラムデー)
(3)カギュ派(開祖 マルパ)ー中心教法はナーローの六法など
(4)ゲルク派(開祖 ツォンカパ)ー中心教法はラムリム

それぞれの宗派の概要、特徴は下記の通りです。
(1)ニンマ派
●ゲルク派と並びチベット仏教の代表的宗派。宗派名は「古派」を意味し、チベット仏教で最も古い吐蕃以来の流れを継承するといわれる。しかし新訳密教が普及すると、旧来の古密教はインドの伝統に反した不純な要素を有すると批判されるようになった。
●そうした批判に対抗する形で登場したのが、ニンマ派の中興の祖といわれるロンチェン・ラプジャムパ。彼は新訳密教の奥義である「大究竟=ゾクチェン」の教えを初めて書き記すなどして教義を整えた。
●「大究竟」は心部(セムデ)、界部(ロンデ)、秘訣部(メンガクデ)の三部に分けられるが、その内容を一言でいえば森羅万象は本来的に解脱した「心性=本来の清浄な心」であると説く点に集約される。
●ニンマ派は新訳派とは異なる多数の文献を伝えている。代表的なものに下記がある。
(1)吐蕃時代からの文献を主とした古経典系の「カーマ(仏説部」
(2)社寺の秘蔵の宝物である霊宝系の「テルマ(埋蔵部)」
(3)玄妙かつ純粋なヴィジョンの「ダナン」
●ニンマ派によれば「カーマ」は途絶することなく、釈迦から何人かの師弟間の相承を通じてパドマサンバヴァに伝わり、今日に伝承された。
●ニンマ派の大きな特徴といわれる「テルマ」は、パドマサンバヴァが後世の人々のために秘匿した啓示的な教法で「カーマ」系の真髄を表したもの。パドマサンバヴァはチベット全土を遍歴し弟子たちに「カーマ」を相伝後、さらに読心術や千里眼や神通力や空中飛行術、死者蘇生術などの特別な教えを彼ら一人一人に相承する一方、それらの教えを寺や仏像や中空や岩や湖沼などに隠した。そしてパドマサンバヴァは将来、自分の弟子たちが生まれ変わり自分が隠していた場所からそれらの教えを取り出して、それをもとに布教し、多くの人々を救うことになると予言した。そのようにして実際に生まれ変わったとされるラマをテルトン(埋蔵教法発掘者)という。
●「ダナン」は啓示的な幻視であり、パドマサンバヴァ自身が実際にテルトンの前に出現して直接教えを伝授するというもの。
●ニンマ派は非常に神秘を重視し密教色が濃い。

(2)サキャ派
●サキャ派の開祖は、天孫降臨伝承を持つ「神聖家系」クン一族のクン・クンチョク・ゲルポ。同派の代表はクン氏の系統から選ばれる世襲制。
●サキャ派は開祖のクンチョクがドクミ訳経官経由で伝授された新訳密教を基盤に成立した。さらにクンチョクの息子サチェン・クンガ・ニンポが膨大な新旧の密教経典やタントラ聖典、口伝などを再編しサキャ派の基盤を築いた。
●教理面の特徴は、インド後期密教を代表する密教経典「ヘーヴァジュラ(呼金剛)タントラ」を根本経典としていること。
●教法の中心は、「道果(ラムデー)」。これはインドの大成就者ヴィルーパの「金剛偈句(こんごうげく)」に基づき、「ヘーヴァジュラ」などの母タントラに説かれる生理学的ヨーガを体系化したもので、後のチベット密教に大きな影響を与えた。
●サキャ派の法系はクン氏一族で独占されているが、世襲性と貴族化の弊害から次第に優秀な人材に乏しくなり、サキャ派の仏教学はクン氏と血縁関係のない人々に継承された。これを「新サキャ派」と呼び、ゴル派、ゾン派(コンカル派)、ツァル派の3派がある。

(3)カギュ派
●カギュ派は三度にわたってインドに留学し、在家密教の大成就者ナーローパやマイトリーパから密教を学んだマルパを開祖とする。マルパが学んだ密教は「秘密集会」から「へーヴァジュラ」「サンヴァラ」に至るまで多岐にわたっていたが、特に彼が名声を得たのは、一生の内に成仏できるといわれる「大印の秘宝」や「ナーローパの六法」を伝授されたことにある。これらはインド後期密教のヨーガの神秘体験に基づき、師弟間の秘伝直授を必須とするのが特徴。
●カギュ派は時代が進むにつれて分派を重ねていくが大きく分けると、マルパのタクポ・カギュ派とキュンポ・ケートゥプのシャン・カギュ派の2系統がある。タクポ・カギュ派のマルパの弟子には苦行詩人として名高いミラレパがいる。そしてミラレパの高弟にカダム派出身のガムポパがいた。
●ガムポパ(1079〜1153)は「大印の秘宝」とカダム派の「ラムリム(菩薩道)」の秘宝の統合に成功し、結果的にカギュ派の主流となり、その門下からパクモドゥ派・タクルン派・ディクン派・カルマ派など多くの支派が誕生した。
●このうちカルマ・カギュ派はチベット密教の一大特色になっているトゥルク(活仏かつぶつ)による相続制度の転生ラマ制度を創始したことで知られる。同派の歴代官長は教祖トゥースム・キェンパが生まれ変わった活仏とされる。
●転生ラマが出現した一族や地域は、挙げて熱心な支持者となったので、カルマ派は氏族や地縁を超えて教線を拡張することができた。このようなカルマ派の成功により、転生ラマ制度はしだいに他宗でも導入されるようになった。
●カルマ派には黒帽派と赤帽派の2派があり、特に黒帽派は大きく発展し現在ではカギュ派全体の最有力教団になっている。

(4)ゲルク派
●ツォンカパを開祖とするゲルク派はチベット仏教の4宗派の中で最も新しい宗派。その頂点は法王ダライ・ラマを戴くなど、政治的影響力の点からもチベット仏教で最大の宗派で、とくに戒律を重視する。ゲルク派は所属の僧侶が黄色い帽子を被ることから黄帽派(こうぼうは)ともいう。
●タントラ密教はその性格上、戒律と矛盾する要素があり、従来のチベット密教には性的瑜伽(ヨーガ)実践過程で戒律を無視するような風潮もあった。そうした傾向に楔を打ち込んだのがツォンカパ。
●ツォンカパは顕教を完全に修めた者だけが、性的修法の局地を含む無上瑜伽タントラの実践が許可されるとした。つまり顕教重視であり倫理道徳を強調した。
●ゲルク派が教線を伸ばした大きな要因は、カルマ・カギュ派の転生活仏(転生ラマ)制度に刺激されて、その制度を導入し、ダライ・ラマを誕生させたことが大きい。

1959年のチベット動乱以来、チベット仏教はかってない試練の時期を迎えています。とくに文化大革命中には多くの寺院が破壊され貴重な文献や美術が失われました。ゲルク派は最高指導者ダライ・ラマがチベットの国王を兼ねていたため、チベット動乱以後は最も苦しい立場に追い込まれました。しかしダライ・ラマ14世が指摘したように、チベット動乱はチベットの優れた人材や知識の海外流出をもたらし、欧米諸国でチベット学の水準を向上させただけでなく、チベット仏教が広く海外に伝播する端緒となりました。

ゲルク派の総本山であるガンデン寺は動乱のおりダライ・ラマ側の拠点となったため徹底的に破壊されましたが、現在インドに再建されています。