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彩雲の店長です。上海万博のネパール館でタンカと出会い、一目で魅了されました。これをきっかけにして神様仏様に関連する彩雲ショップをやることに決めました。よろしくお願いします。

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仏教美術について(初期仏教美術〜顕教美術)

インドの仏教史においては、大きな転換期が3回ありました。
最初は、お釈迦様が出家し法に目覚めて成道し、そしてその後45年間にわたって布教伝道して仏教教団を設立したこと。
第二の転換期は、紀元前後に興起し中国、チベットそして日本に大きな影響を与えた大乗仏教(顕教)。
第三の転換期は4〜6世紀頃から部分的萌芽が見られ、そして7〜9世紀にかけて最盛期を迎えた密教。密教の発達は初期、中期、後期の3段階に分けられます。

このように、インドで成立した仏教は歴史的にも地域的にも多様な展開を遂げていき、それとともに登場する仏たちの数と内容も急速に増大していきます。

1.初期仏教美術〜仏教美術のはじまり
仏教関係の美術が制作され始めた最初の時期はアショカ王(268〜232BC頃)の時代と考えられています。この時期以前のものは現存していません。

この時期以後、西暦1世紀終わり頃までの仏教美術は、お釈迦様の遺骨(舎利しゃり)を埋納した塔を中心とした建築物の装飾として彫刻や絵画につくられていました。その内容はお釈迦様の現世における伝記や、前世の物語である本生話(ほんじょうわ=ジャータカ)で、伝記には、お釈迦様の姿を直接には表さないで法輪や菩提樹や仏足石などお釈迦様の伝記に関係した事物によって表されています。中インドのサーンチー仏塔の塔門や欄楯(らんじゅん)には、これら伝記と本生話の見事な浮き彫りが施されています。

2.顕教美術〜仏像の成立
お釈迦様の姿が人間的な形であらわしはじめられたのは1世紀の頃です。その遺品はインドの西北地方ガンダーラに多くあります。ここには古くからギリシャ人が住んでいたために、ここで制作された仏像はギリシャ人のような顔をもちギリシャ神像のような像になっています。

ガンダーラで仏像彫刻が作られはじめた頃、インド本土においてもお釈迦様の礼拝堂が制作されはじめています。この時期の釈迦像はお釈迦様の伝記の場面から抜け出したような形が種々作られています。例えば禅定や降魔や説法などのお釈迦様です。仏像が成立して、その制作が一般的となった頃には仏教も初期仏教の時代から民族を越えて信仰されるようになった大乗仏教の時代になっています。

<仏の三十二相>
釈迦像が制作されはじめて間もなくの頃に成立した大般若経などの経典には、仏の姿に関する特徴を数え上げたもので「仏の三十二相」、「八十随好形(はちじゅうずいこうぎょう)」が述べられています。八十随好形とは三十二相を更に詳細に説いたものです。

これらのものは人間の姿を基本としながらも、その姿の中に宗教的な理想をあらわすようにと考えられたものです。例えば三十二相の中には、身体手足すべて黄金色に輝いているとしたり、手足の水掻き、手の長いこと、眉間に右巻の白毛があり光明をを放ち伸びると一丈五尺ある白毫相(びゃくごうそう)などが述べられて、ここに述べられていることが後世においても仏像の基本的形態となっています。またこの相は、後には菩薩も備える相であるとされるようになりました。

<釈迦八相図>
仏伝(お釈迦様の伝記)をあらわす美術は無仏像時代からはじめられていますが、仏像成立以後には、お釈迦様を人間の姿であらわした仏伝が彫刻や絵画で表現されています。仏伝の一部分を絵に描くことは日本でも作り続けられていて、お釈迦様の八大事蹟を描いた「釈迦八相図」などは早くから作られています。釈迦八相図とは八大成道ともいい、お釈迦様の一生における八大事をいいます。

〜釈迦八相(しゃかはっそう)〜
降兜率(ごうとそつ)ー兜率天から下ったこと。
入 胎(にゅうたい)ー母体に入ったこと。
出 胎(しゅったい)ー母体から出生したこと。
出 家(しゅっけ)ー修行生活に入ったこと。
降 魔(ごうま)ー悟りを得る前に訪れた悪魔を征服したこと。
成 道(じょうどう)ー悟りを得たこと。
転法輪(てんぼうりん)ー説法、教化したこと。
入 滅(にゅうめつ)ー涅槃に入ったこと。


釈迦伝のうち日本で最も多く作られているのは、誕生(出胎)と入滅の両場面です。
お釈迦様の誕生をあらわす誕生釈迦は、日本では奈良時代から作られており、現在までこれを本尊とした行事はつづいています。生まれるとすぐに七歩あるき、右手を上に上げ、左手を下に下げ「天上天下唯我独尊」と唱えたといわれるものです。

お釈迦様の入滅の場面をあらわす涅槃図は、沙羅双樹のもとで亡くなられたお釈迦様を描いたものです。 お釈迦様が入滅される様子は『涅槃経』という経典に記されていますが、それに基づいて描かれたのが仏涅槃図です。

<過去七仏>
人間としてのお釈迦様が法身(ほっしん)としてのお釈迦さまとして考えられてゆくにしたがって種々の仏の存在が考えられはじめました。(法身とは、仏の姿を三種類に分類した報身(ほうじん)・応身(おうじん)とともに三身(さんじん)とされるうちのひとつで、真理そのものとしての仏の本体、色も形もない真実そのものの体のこと。仏の究極の本体ともいわれる)

まず、お釈迦様が悟りを開いたのは独りで悟ったのではなく、それ以前からの教えを過去に受けたと考えられました。そして「過去七仏」が過去に出現しており、お釈迦様はその第七番目であったとされます。 過去七仏とは、毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘沙浮仏(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)、拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の七仏です。この七仏に対して未来に出現する弥勒如来が誕生しています。

<様々な如来の出現>
過去七仏や弥勒如来につづいて、もっと具体的な性格をもった如来が間もなく考えられはじめます。西方極楽浄土に住して命の終わった人間を、その臨終に迎えに来て極楽往生させてくれる誓願をもっている阿弥陀如来。人間の病苦に対しての守護を果たしてくれる薬師如来。東方の妙喜国に住する阿閦(あしゅく)如来などです。

大乗仏教(顕教)の前期時代には、これらの諸如来が出現すると共に、如来の住する浄土への想像が限りなく広げられ、善美を尽くした壮麗な浄土の表現が出来上っていきました。

<様々な菩薩の出現>
最初の菩薩の名は出家以前のお釈迦様につけられていたものでしたが、大乗仏教の時代になると如来に到達する前段階にある菩薩としていろいろな名をもったものが表れてきます。弥勒・観音・普賢・文殊などはこの時代の早い頃からその名が見られ、後にまで重要な役割をもっている菩薩です。

しかし、この時代の仏教信仰は如来の境地への到達がその中心になっているために、これらの菩薩各々が独立した性格をもったものとして信仰の中心になるようなことはありませんでした。(そのような信仰も、この時期には起こりはじめたようですが、それは後の密教的信仰によってなされたと考えられています)ですので、この時代の菩薩は如来の両脇侍として、如来の性格の一端をあらわすものとしての性格をもつに過ぎないものとして表されています。

例えば、阿弥陀如来の両脇侍としての観音菩薩と勢至菩薩。釈迦如来の両脇侍としての普賢菩薩と文殊菩薩などのような形として菩薩たちは考えられていました。ですが、これらの菩薩は後に別の系統の密教経典において、種々の性格を付け加えられ、独立した信仰をもたれるようになっていきます。

顕教の時期における浄土図をみると、多くの菩薩のほかに様々な姿をした護法神も描かれています。これらのものは仏教以外の異教神の姿で、仏教に教化されて仏教を守護することを誓った神々です。これらの神々は浄土に威容を添えるもので四天王・八部衆・十二神将・十六善神などはその例です。